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梅田陽子のマインドボディ便り

更新日:2009.11.01(日)

【第8話】
J100年構想

日本では昔からプロスポーツと言えば野球と相撲でした。子供の頃からテレビを つければこの2種目が目に飛び込んできました。それがいつの頃からでしょうか、 サッカーがテレビや新聞紙面をにぎわすようになったのです。

ワールドカップに出るようになると、ルールもよく分からないにも関わらず、自分 が長い時間なかなか点の入らないボール運びを観るようになるとは思ってもいませ んでした。何故、サッカーがこれほどの短期間に国民に浸透したのか?なんとなく ですが不思議に思っていたら、有名な元チェアマンや、チームを創設した方々から 苦労話を聞く機会に次々に恵まれました。

その日は、勝てば100勝目となる京都のチームの試合日でした。1990年当時、ワール ドカップ仕様の4万人以上の競技場は国立と神戸の2つだけで、世界に誇れる専用競 技場は0。選手の競技力は、1968年メキシコオリンピック以来、22年間アジア予選で すら勝てない状態でした。

唯一人気があったのは高校サッカーぐらいで、その他は集客力がなく、動因数は3,00 0人/1試合、年間トータル30~40万人だけであり、国立競技場が満席になることはな どない。観ても面白くない・マスコミは扱わない・競技場もないという最悪の状態だっ たのです。

そこで、サッカーが盛んなヨーロッパや南米から学ぼうと視察に行かれました。ここ から再生への道がスタートしたのです。行き先で気づいたことは、地域に根ざしたス ポーツクラブ(日本のフィットネスクラブのことでなく、会員制の地域の人たちが好き なスポーツをするクラブ)の存在でした。

これを新しい改革モデルだと考え、サッカーの普及によって地域が育ち活性化すると みられたのです。目指すのは「地域に根ざしたスポーツクラブ」でした。しかし、モデ ルと比べ日本の現状を見ると、到達するための条件レベルは大変高く困難を極めると 考えられました。

とりあえず目標を立て、年次計画で到達させようとしたのですが、過去から見ても不 可能であることはよくわかっていたそうです。そこで行ったのが、目標を下げるので はなく、あえて高いハードルを作ることでした。考え方はこうです。

「到達困難なことは実施前から分かっている。無理だとわかっていることであるから、 とりあえず取り組み、実際にやっても無理な状態になったら、そのときにやめればよい 。飛び越えられなければやめればいい。」だめならもとに戻るだけで、失うものは何も ないの精神でした。

そこから実際に立てた目標は競技場設立でした。まず芝生でナイター照明がある15,000 人収容競技場を設立。この構想の利点は、ナイター照明だと芝生の競技場が美しく映る。 美しいから、がらがらのスタンドが映らない。ナイターだとプレーが下手でも上手く見 える。という見た目本位と伺い、現実的な戦略だと感心しました。

他の「ハードル」として、プロ指導者を育成する、独立した法人格を持つなど7つのハード ルを作る。1990年4月、イタリアWC前のことでした。

鹿島アントラーズの誕生も大きな要因でした。鹿島は集客方法を屈指し、若者を含めた市 民をサポーター化していきました。他チームはいくら儲けた?ですがアントラーズは何人 入った?が合言葉。チケットは、初めは無料、人気が出るにつれ前売り完売となり、応援 団は膨大な数へと膨れ上がっていきました。

鹿島は工場地帯なので暴走族が多かったのですが、彼らがサポーターへと変化し、暴走族 はいなくなったそうです。鹿島アントラーズが生まれたことによって、市民が団結するも ととなり、地域の活性化が生まれました。そして一番優勝に遠いチームであったにも関わ らず、結局優勝を手にしたことでさらにサポーターは活性しました。

年間20試合あるということは、街の祭りが20回あると同じこと。コミュニティが活性化し、 人々の絆がサッカーチームを応援するという共通認識のもとに団結していきました。アン ケートによると、友人との関係が密接になった・街のみんなと連帯感がもてた・家族子供と の対話が増えた・町に愛情を持てたなど「街に誇りを持てる」市民の誕生となったのです。

Jリーグの成功に至るには、このような模範生を作ったことにあるそうです。彼らは後に全 国のボランティア活動のベースとなったのです。

2000年まではJリーグは発展を続けました。しかしチーム数が増えると高度なプレーヤーが 分散し、チームのレベルが低下する(薄くなる)ため、対策としてチーム数を減らすべきで あるとの声が上がったそうです。しかし、Jリーグ設立の理念を再認識し、本質的な目的を 達成させるため、理念に立ち返るようチェアマン指針が発令されました。

チェアマン指針、Jの理念とは「スポーツの普及促進・豊かなスポーツ振興と国民の心身の 健全な発達への寄与(誰でもそこに行けば好きなスポーツができる)」サッカー普及ではな い「地域スポーツの振興」であり「人の集う我がまちづくり」なのです。サッカーが瞬く間に 普及した根底には、Jの素晴らしい理念があったのです。

人と人とが出会い、運動やスポーツを通じて集う。そこから、人と人とのつながりは大きく 広がり、共に生きる喜びへと発展していくのです。その場に出くわす自分の職業に誇りをも ち、少しでも能力に磨きをかけて役に立てる人材となりたい。

「J100年構想」と自分の寿命以上に夢を描いた人たちに近づけるよう、地に足着けて歩ん でいきたいと強く思いました。



梅田 陽子



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